真言宗 西条聖天 観現寺

歴史・文化財

History・Cultural resource
歴史と伝統が息づく、御薗宇(みそのう)ゆかりの地

勝谷山観現寺は菖蒲御前が夫源三位頼政の菩提を弔う為に建立したと伝わる。
治承4(1180)年5月26日、源頼政は宇治平等院の戦いで以仁王の身代わりとなり自刃した。その妻 菖蒲御前は、身重の体で一子種若丸を連れ、家臣の猪野隼太らと供に西へと落ち延び、賀茂郡下原郷に隠れ住んだ。
種若丸は病に倒れ亡くなってしまうが、新たに出生した豊丸は後に水戸新四郎頼興と名乗り、二神山城を築いたとされる。

時は移り源氏の世となると、菖蒲御前は源頼朝より賀茂一円を賜った。菖蒲御前は「我が薗(領地)よ」と喜び地名を下原から御薗宇と改め、夫頼政の菩提を弔うため頼政の念持仏を本尊として一宇を建立し、観現寺と号したのが建久元(1190)のことと伝わる。

家臣、猪野隼太も姓を勝谷、名を右京と改め、永く観現寺を譲り土地のめに貢献したという。

後の荒廃により当時の堂宇や頼政の念持仏などは失われてしまったが、境内には猪野隼太の墓とされる宝篋印塔(市・文)や観現寺厨子(県・重文)に歴史を見る事ができる。

歴史を今に伝える観現寺の寺宝

御厨子(室町時代の県重要文化財)

房子とは仏像や経巻を安置してあるものです。

この厨子は15世紀のものと言われ、古式豊かな建築様式から平成4年10月に県の重要文化財に指定されています。

厨子の上には如意頭という飾りもあり、中世の建築が数少ない安芸国(広島県西部)では貴重な文化財です。